きりこについて、について

突然ですが、私はぶすです。毎日そのことばかりを考えながら10代を過ごしてきました。こんな始め方をすると病んでる女の子の愚痴ブログみたいになってるけど違うんですよ、違いますからね、けどとにかく世間一般的に見て私の顔面は上はおろか中の上でも中の下でもなく、下の上とも言い難い、というような位置づけだと思うのです。これはまったく謙遜しているわけでも悲観しているわけでもなく、周りのひとたちと自分の顔面を冷静に比較した結果です。そしてそれに伴って女子としての自己評価もその程度なのです。ぶすだからこんな服着れないなあ、ぶすなのにこんなアクセサリーつけていいのかなあ、という気持ちにがんじからめにされて身動きがとれなくなる、そんな10代最後の5年間を送っていました。あっちがうんですよ、悲劇のヒロインブログが書きたいんじゃなくて、


この小説の話がしたいのです!


きりこについて はぶす(本文中でも太字になっているので、それに倣ってみます)なのにぶすであることに気づかない、クラスの女王様だった小学生のきりこが、ぶすであることを初恋の人に宣告されるところから始まります。

そうそう、実は自分がぶすであることって誰かに宣告されないと気づかないのだよね!私も自分がそこそこの顔だと思ってた中学生のときに、知らない男の人に「オアシズの大久保さんに似てる」って言われたんだもん!ケッ!

「うちは可愛い」それが自分のアイデンティティだと思っていたきりこはどんどん自分がわからなくなって、ついには本当に身動きがとれなくなってしまいます。けれどきりこの側にはいつだって美しくて賢い黒猫のラムセス2世がいました。ラムセス2世や猫たちに背中を押され、きりこはある事件に立ち向かう決意をするのです。


きりこがいかにぶすでひどい顔立ちであるかに関しては「もうわかった!やめてくれ!」と言いたくなるぐらい繰り返し描写されているし、きりこに対して「美しい」という言葉が使われることは一度もなかったと思うのですが、きりこが立ち上がるシーンが本当に美しいのです。人の悲しみがわかる人は美しい。陳腐な表現ですが、人それぞれの美しさって本当にあるんだろうなあ、と思わされます。きりこやちせちゃんの放つすべての言葉が力強くてまっすぐで素敵。

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」


きりこについて を読んで気づいたのは、私は自分がぶすであることがずっと、本当にずーっとつらかったけど、でも自分の顔が好きだ、ということです。ぶすだって思ってるときだって、自分の顔が嫌いになりきれないからつらかったのです。世間一般の「可愛い」とは程遠いけど、けど愛嬌のあるいい顔じゃん、よく道とか電車とか聞かれるし、それっていい顔してるってことじゃん、って思うようになりました。

中高生のころ、美醜って女の子のなかではそれがもう全部で、人の価値を決めるのは可愛いか可愛くないか、それだけの基準しかなかったけれど、美しさってたぶん顔立ちの美醜だけじゃない。自分の中で光るものは、きっと誰かのことも照らせるのです。そんなお話。